君のスケッチ帖

いたいけな中年がマンガを描いたり本を読んだりするブログ。

市川春子『宝石の国』(1)

 市川春子の最新作『宝石の国(1)』を読んだ。


宝石の国(1) (アフタヌーンKC)

宝石の国(1) (アフタヌーンKC)


 市川さんはこれまでの短篇作品を通じて「壊れものとしての人間」といってもいいようなある特異な人物たちの姿を繰り返し執拗に描いてきた作家だけど、存在に備わったそのような壊れやすさの特性は今作でも、宝石と生物のハイブリッドな融合という設定をもつ登場人物たちの奇怪な在りかたにおいて踏襲されている(主人公の腕がちょっとした拍子にパキン!と音を立てて割れてしまったりすると、その断面に鰹節を割ったみたいな滑らかな鉱物質の輝きがあらわれたりして、すごく美しくておもしろい描写になっている)。「壊れもの」なんて喩えをもちだすとまるで壷かお皿でも問題にしてるみたいな言い方なんだけど、じっさいほぼ例外なく、市川作品においてさまざまな仕方で描かれる人体の破裂や分解の描写では、そのとき彼かのじょらが感じていてよさそうな身体的な痛みの感覚といったものがまったく顧慮されることがない。人体の分解やその結果に伴う存在の消滅といった出来事は、その意味で、何者かの死で終着するようなあるドラマの過程を示すために導入されているわけではなくて、存在における実体や本質と思われるものの消滅を超えたところで待ち構えている、あるまったく異質な世界の水準でのあらたな出来事を描写しようとするためにこそ導かれているものなんじゃないか、という感じがする。人間は壷やお皿といった単なる物品とはもちろんまったく異なるものなんだけど、人間もまた、けっきょくは、壷やお皿といった単なる物品を形づくっている無数の部品や粒の集合と寸分違わず同じものから成り立っているものであり、身体の破裂はそのとき、そのような人間未満、あるいは人間以上の場所と時間への人間の新たな生成を描写しようとしているようにも見える。市川作品に特徴的な人体の壊れやすさ、砕けやすさの特性とはそのとき、たんにそこでそのようなものとして終止するものなんじゃなくて、別のものとの「混じりやすさ」、別のものへの「変わりやすさ」といったもうひとつ別の特性を準備するものとなる、という感じが強い(市川さんの作品は、何者かの死で終わるようなドラマといったものがしばしばむやみに掻きたてる湿っぽい感傷とはまったく無縁で、最終的にはとてもしなやかでカラッとした心強い開放感を惹き起こす)。人間以前/以後の時間、人間未満/以上の経験、そのような、人間がふだん自分の内/外にあることを忘れている(無かったことにして忘れている)形態化=個体化の外の境地といったものを思い出せてくれるという意味で、市川春子さんの作品はぼくにとってかけがえのないものであり、それに接するたびに(勝手に)勇気づけられる思いがする。

 存在の壊れやすさや砕けやすさといったものだけが問題になってるのではなく、それが別のものとの染まりやすさや混じりやすさといった交換(交歓)の幾つかのパターンを実現するために準備される、いわば予備的な一種の試練であるからには、それらは必ず、対照的な一対のペアのあいだでお互いがお互いの異質さを乗り越えるという形で見いだされねばならないものとなるだろう。市川作品で2人組のカップルといったものが特別視されるのはそのような理由によるものだと思われる(その意味での市川春子的カップリングの典型は「25時のバカンス」の姉弟ということになるんじゃないだろうか。生物的な生殖の水準を伴わず、不毛とほとんど見分けがつかないような類似者同士のあいだに萌すこの上ない豊穣といったものが作品の最終ページで発見されたのではなかっただろうか?)。粉々に砕けた破片の一片いっぺんの見分けがつかないように(一匹の昆虫ともう一匹の昆虫の、一本の植物ともう一本の植物との個体差の見分けが私たちにはとても困難なように)、カップルの相互もそのような類似の関係のもとに姿を現わしているように思う。あるいは少なくとも、物語の進行の末に、異なる境遇にいると思われていた二人がとても類似した関係にあったことが確認されることになるように思う。市川さんの作品ではしばしば遺伝子や微生物研究といったマイクロスコピックな観察にまつわるモチーフが物語の背景として取り上げられるわけだけれど、この個体と構成要素との関係は、複数の人格という更に大きなパラメーター相互の関係において、2人組における類似関係として反復されているんじゃないか、とも思われる。二人の姉弟、クローンのモデルとコピー(「星の恋人」たち)、昆虫たちの家族的結合といった愛の作り出す人格相互の結合関係は、そのような類似関係を人物同士のあいだに架橋することを可能にしているようにも感じられる。

 今作でもまた、同様のカップリングが形づくられようとしているんだろうか? 作中ではこんなセリフがある。《私たちを装飾品にするため月より無数訪れる狩人に対しこちらは28名 技術ある者二人一組で見張る者戦う者 皆それぞれひとつかふたつ得意な役割を担い補い合っているが》(p.21)。主人公の「フォス」(フォスフォフィライト)は身体的にとりわけ脆弱で、何をやらせても生来の不器用が邪魔をし、戦闘はおろかいかなる任務にも適性を見いだせないグズな存在として、他の宝石たちに疎んじられている気配すらある。そのあまりに無力かつ無用であるところからむしろ宝石のきょうだいたちの中で際立ってしまっているような存在とされており、作品はこのフォスを欠落の中心に据えてその世界の謎を埋めていこうとしているように見える(博物誌の編纂という知的な任務がフォスに新たに課される)。それまで任務についていなかったフォスには当然二人一組のパートナーが存在しなかったことは想像にかたくないけれど、しかしそこに、物語はもう一人の孤独な人物を導入してフォスとの可能的なカップリングの成立を示唆している。それが「シンシャ」という人物で、こちらはしかしフォスとはまったく逆に、彼(彼女?)はあまりに優秀な戦闘の資質が備わりながらも、周囲の味方にすら被害を及ぼしかねないその危険きわまりない体質によって(夜警という)意味のない、無用の任務に厄介払いされている者とされている。対照的で対立的ですらある類似者同士の関係といったものがこうしてまた『宝石の国』でも成立しようとしているのだけれど、市川さんはしかし同時に、その従来からの関係に新たなパラメーターを導入してもいるだろう。つまりこのシンシャという人物に設定されている「体から毒物を無尽蔵に噴き出す危険な毒性体質」によって、それまでの市川春子的キャラクターが備えていた重要な特性である「混じりやすさ」と、それによって可能となる別のものへの変成という筋道が著しく阻害されざるをえない、という点。これが新たな機軸として指摘できるんじゃないだろうか。空気も土も汚染するというシンシャのその毒液に触れた者は、宝石同士の間柄であっても、その接触箇所を削り取らなくてはならないとされる。これは混じりあうこととは正反対の事柄だけれど、しかし同時に、何かがきわめて染まりやすいということの証でもあるだろう。混じりやすさの実現であると同時に、混じってはいけないという禁止の表徴でもあるこのアンビバレントな関係が、これまでの類似の関係のなかでどう進展することになるのか、作品の今後を静かに待たなくちゃならないだろう。(それをたとえば、あまりに性急に「3.11」以降などとされる現実の問題と直結させることは、今のところ慎んでおかなければならない)。