君のスケッチ帖

いたいけな中年がマンガを描いたり本を読んだりするブログ。

雲には顔がない

 雲。もくもく、くもくも。


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 9月に撮ったうろこ雲というのかいわし雲というのか、正確な呼び名は知らないけど、千切れたパンみたいないかにも秋らしい雲の写真があったので、それを参考に描いた。めちゃくちゃ面白くて夢中になってペンを走らせていたので画面のバランスとしてはかなりくどい、しつこい感じの分量になってしまったけど、良しとする。雲、いいわあ。新たな発見。

 当たり前のようだけど、雲には顔がないんだなってことを考えながら絵を描いていた。人の手で作られたもの、道具とか物品全般には、顔があるような気がする。顔がある、というか、それを眺めるさいに無意識のうちに顔を想定しているように思う。車とか飛行機みたいな乗り物なんかはことにその感覚が強いし、そうじゃない、たとえばいま目の前にあるマグカップだとか消しゴム、シャーペン、ペットボトルやライターなんかにさえ、そこに顔を想定せずにそれを眺めることは難しいようにも思う。物の顔とかいってしまうとたんじゅんにそれの擬人化みたいなものに聞こえるかもしれないけど、それとはちょっと違うような気もして、「物の正面性」とでもいえばいいのか、そのものを見る際に人が無意識に相対するそのものへの態度とか姿勢の志向性みたいなもの、そんな感じだろうか。たとえばシャーペンを前にしたとき、あるいはシャーペンという物品の存在を漠然とでもいいからともかくイメージしたとき、人はおそらく、シャーペンを鉛直方向から眺めたり、あるいはそれを過度に巨大に、または過度に微細にイメージするようなことはまずないんじゃないだろうか。道具としてのシャーペンは掌に収まるサイズでイメージされて、先端部分を頭にそこからまっすぐに流れる格好でもうひとつの先端のノックする部分に至るよう観想されることになるんじゃないか。物の顔っていうのはそういうような、それに対する人の態度と姿勢を決定する志向性のことで、正面性とはそのようにして眺められる物の自然なありさまのこと、くらいの感じ。
 雲の画像を見つめながら絵を描いていると、雲にはそういうような正面性がほとんど存在しない、あるにしてもそうとう希薄なかたちでしかそれが存在しないということを感じた。画像のなかの雲をひとつ見つめて細部を観察していても、視線はあっちこっちにさまようばかりでちっとも定まらないし、定まらないものを無理して定めて見つめても、自分の絵の方を向いて目を離すと、つぎの瞬間には他の雲の塊のなかに視線が迷子になっていることに気づくばかりで、これと定めることがとても難しい。同一性の決定がとても困難ということだ。これは、それが人の手によって作られていない自然物だから顔が見定めがたいとかいうことではかならずしもないようで、たとえば樹木とか山なんかではそういう困難はあまり感じないような気がする。そのことを考えると、これはなんとなく重力から受ける方向性の力とか物のもつそれじたいの放つ質量の感覚とかと関係しているんじゃないかなとも思う。上と下の区別、右と左の区別とかいうものはひとつの定まった方向を決定する際の認知の指針みたいな働きをしているようにも思うけど、宙に漂う水の膨大な塊である、つまり流体として流れる雲みたいなものは、重力だとか質量、対称性や視線における価値の優先度、みたいなもろもろあるだろう「ひとつの方向性」を決定する指針といったものを極度に欠いているように感じる。それを前にした際に感じる困難は、以前に戯れに波打ち際に寄せる白波のスケッチをした(スケッチに失敗した)際に感じた酩酊感ととてもよく似ている。波もまたひっきりなしに流れつづける散乱の一様態であるだろうけど、そのときはとどまることのないその動きに動体視力がついていけないだけだと思っていたけど、雲の静止画でも同様の困惑(魅惑)があったのだから、現実の運動といったものだけが、絵を描くという再現性の試みを阻むものではない、ということじゃないかと思う。再現を阻む、同じことだけど、それは再現を励ますことでもあるわけです。紙の上に定着される絵といったものも、思えば、インクという液体やペンのひっきりなしの運動の結果として産出されることになるわけで、大きなことをいえば、それじたいが無数の雲の生成であるべきものなんじゃないか。そのとき、再現性の表現であったものはどこかに向けられた何かの顔の表現であると「同時に」、しかし、顔のない、再現性とは無関係の生成の試みにもなる。たとえば高野文子さんのマンガや三好銀さんの作品はそういう生ける実例の紛れもない足跡としてあると考えている。

…もちろん、わたしのつまらない絵はそのかぎりではありませんが。以上のようなことをつらつらと考えながら雲の絵を楽しみましたよ、と、その程度のはなしです(どっとはらい)。